エッセイ入選


1998年エッセイ・入選

『兄からの贈り物』

埼玉県 坂本幸子さん
47歳 (主婦)


  前日の集中豪雨が嘘の様な快晴の朝、梅雨時にしては、爽やかな日差しが眩しく、全てが輝いていた。テニスの早朝練習を終えて中学校から帰宅した私は、父から信じ難い言葉を聞かされ、絶句してその場に立ちずんだ。「慎ちゃんが死んだらしい……」まだ、ニ十歳の兄が死んだ? なぜ! 大学の山岳部に籍を置いていた兄は、友人と岩登りの練習中バランスを崩し、岩角にザイルを切断されて谷底に転落する事故に遭ったという。なんと頂上まで僅か三メートル地点との事。
― その後の数年間、私たち家族がどの様に過ごしたのか、全く記憶がなく、只、確かな形として残された物は、兄の保険金だった。夜学に通う兄は、僅かな給料の中から、しっかり保険を掛けていたのだった。両親は驚き感動し、一人息子の「思いやり」に言葉を詰まらせて只、涙する日々だった。
 やがて、生涯残しておける形にと、父の故郷に近い土地を僅かばかり購入した。
兄が逝って三十年、両親も亡き後、私達姉妹が受け継いたその土地は、新駅が出来、立派なニュータウンとして今春街開きをした。若干ニ十歳の兄が薄給の中から、どんな思いで保険料を納めて来たのか、そして両親が息子の命と引き換えの保険金を手にした時、これ程温かい、血の通ったお金に触れた事はおそらく無かったであろうと、私は今の歳にして思う。兄妹として浅い日々だったが、永遠に兄としての立場を誇示するかの様な「兄からの贈り物」である。