エッセイ入選


1998年エッセイ・入選

『実年夫婦の情景』

佐賀県 小川和則さん
68歳 (無職)


  「結婚記念日には、奥さんに何か贈っているかい。等閑にしていると、その不満が退職したあと一遍に吹き出すらしいよ」こう漏らした友人がいた。そう言えば、これまでも、買ってやろうと言えば「何も要らない」と言うし、こちらで買ってくれば「こんなものを」とかたくなである。枯れた夫婦の仲でも、この辺りがしっくりと噛み合わず、いつも煩わしい思いをしていた。
 その妻が、私の退職間際になって「わたしが入れる保険はあるね」と、出し抜けに切り出した。老後の不測の出費のことが急に不安になったのであろう。早速、セールスマンを呼び、老いゆく年の節目ごとにも受け取れるように、二種類の保険を組合わせて保障してもらった。
 後日、保険証券が届けられたとき、妻は「有難うございました」と両手で顔の辺りまで持上げ、拝むように丁寧に頭を下げた。ちっとも不自然な仕草ではなかった。ずっと複雑な対応を示してきた妻からの意外な言葉だけに、奇異に感じた。余程嬉しかったのだろう。心底に眠り続ける澄み切った感謝の気持ちを汲み上げる思いがした。
 思えば、一見高い買い物に。しかし、これで傾きかけた夕暮が、少しでも美しい輝きを放つ夕映えに転じれば、それでよいと思った。
 それにしても、こんな素敵な贈物にどうしてもっと早く気付かなかったのか。保険料は若い程安いというのに。