エッセイ入選


2002年エッセイ・入選

『クールな妻と生命保険』

神奈川県 芝本貞良さん
62歳

 「生命保険は、やめようか」私は言った。今年の三月に退職し、それまで加入していた会社の団体保険から、今度は個人で新たに保険に入らなければならなくなったのだ。
 妻は読んでいた本を置いた。「どうして?」
「年金生活の身に、保険料はイタイ」
「お酒と煙草をやめれば、いかがですか?」 妻は本に目を戻す。私は言う。「それは、俺が天国へ…」妻が顔を上げたので言い直す。「いや、地獄へ行く時のおまえのため?」
「何かの本に、保険は老後の安楽を心掛け子孫の行く末を思うことってありましたよ」
「子どもは独立したから、おまえの安楽だけだ」
「コーヒーを入れましょう」妻は立ち上がった。
「それと、私が先に天国へ行くかもしれません」
「なるほど」私は呟いたが、考えてみると保険は私しか入っていない。妻が先に天国か地獄へ行っても、私の安楽はないことになる。
「あなたは私の一番大切な人です」 妻がコーヒーを入れながら言う。私はびっくりした。こんな言葉を聞いたのは初めてだ。妻が続けて言う。
「私も保険に入っています」 これも初めてであり、私はまたもびっくりした。
 妻は私の安楽も考えてくれていたのだ。この歳になって生命保険に新規加入するとは思わなかったが、一方でいつもクールな妻の本心を知ることが出来たことになった。
 カップを手に本を読み出した妻の横顔を見ながら、私は煙草に出した手を引っ込めた。