エッセイ優秀賞


1994年エッセイ・優秀賞

『三十年前の約束』

北海道 木谷悦朗さん
 60歳 (会社員)


  定年を間近にひかえたある日、女房が「これ満期になりますね。」と保険金五十万円の生命保険証券を差し出した。三十年前結婚を機会に加入した、今ではささやかな保険だけど、当時の小生の月給の手取りが一万三千円だったことを考えると、若いサラリーマンにとっては絡構重みのある保険だった。
 それだけに月千二百円の掛け金は、苦しい生活費のなかからの支出でもあった。「私のためを思って加入してくれたのはありがたいけど、今の私には毎月千二百円の生活費の方がありがたい。」そんな女房の言葉が二三度続いたあとの二人の合意は、「二人とも元気で満期を迎えたら健康だった証に海外旅行をしよう。」当時としては夢のような約束だった。
 「三十年前の約束を実行しようか。配当金も積み立てだし十分だよ。」それからの話のまとまりは早かった。行く先は女房の妹が永住しているアメリカ十日間と決った。
 数日後、机の上に女房の新しいパスポート、そしてその下に養老保険のパンフレットが置いてあった。パンフレットを見入る小生に、娘が「三十年間元気だったご褒美にアメリカへ行かせてもらって、次は二人で宇宙旅行にでも行くの、それまで元気でいてよね。」と小生の肩をたたいた。
 「元気でいてよね」という娘の命令口調の言葉に、また新たな人生への出発を決意させられた。

寸評
審査員・嵐山光三郎
  アメリカ十日間の旅行ってところが一うらやましい。夫婦そろって元気で満期をむかえられたんだから、これ以上の幸せはないでしょう。アメリカ旅行のあいだは、それまでいろいろあったことが思い出されたでしょう。