エッセイ優秀賞


1994年エッセイ・優秀賞

『セールスオバサン』

島根県 佐野正芳
 56歳


  冬は寒風が吹きすさぶ陸の孤島「丹後半島」も、夏になると様相が一変する。
 輝く太陽、海底が見えるほど透明で穏やかな海。色とりどりの水着が海岸に溢れる。
 私は三十代最後の夏、この天国のような光景を眺めつつ、丹後半島に単身赴任した。
 赴任間もない暑い日の昼休み、私の職場に太ったおばさんが、「暑い、暑い」と言いながら汗を拭き拭き入ってきた。
 初対面と言うのに旧知の間柄のような人懐っこい笑顔で名刺を差し出す。
 生命保険のセールスレディである。いや、厳密に言うと「セールスオバサン」である。
 ここは僻地で、独特の習慣がある。それを承知して、地元の人達と付き合わなければならないと親切に教えてくれる。
 特別勧誘をされた記憶が無いのに、なぜか帰る時には、保険に入っていた。
 それから十年後、「鉄人、不死身の男」の異名で呼ばれた自分が死亡率第一位の病気で入院した。「青天の霹靂ですね」と医者が言ったが、正に予期せぬできごとであった。
 主治医の献身的な治療で九死に一生を得て退院した。そして、退院後、思いもよらない入院特約の給付を受けた。
 今も時々丹後半島の光景を懐かしく思い出す。美しい海岸と共にあの暑い日の「セールスオバサン」のことも。

寸評
審査員・嵐山光三郎
 セールスレディにもいろいろな人がいるが、この人のように面倒見がいい人は嬉しいですね。セールスは仕事だけれども、単なる仕事だけではない。地元のきもったまカーサンという感じなんだろう。