エッセイ優秀賞


1995年エッセイ・優秀賞

『満期も方便』

東京都 開 芳子
64歳 (主婦)


  「ねえ。生命保険が満期になるの。女だけで京都へ行かない? わたしが全部もつから」
母から電話がきたのは今から十数年も前だったろうか。父は死に、女三人、男三人の子供は結婚して、母は一人で暮らしていた。娘三人はそれぞれ教育盛りの子供を抱え、旅行どころではない生活のまっただ中であった。こんな有難い話をことわるはずはない。
 「悪いわね。お母さんいいの?」
と言いながらすぐに話はまとまって、二泊三日の旅に出かけた。少し足が不自由な母のために、全日程タクシーを使い、娘の気安さで金に糸目をつけずにおいしい物を食べ、夜も四人枕を並べていろいろな話をした。年を重ね離れて暮らしている親子が、昔の母と子に戻って母に甘えた三日間だった。
 あと半年で私の保険も満期をむかえる。私も母と同じ事をしようかと考えて"はっ"と気がついた。あの時、母が言った「保険が満期になる」というのは嘘だったかもしれない。娘三人に遠慮させないための口実だったかもしれないと、私が今、母の年になってはじめてわかったのでした。「生命保険が満期になるの」という一言に、老いた母の知恵と、淋しさと、愛情と、様々なものを感じ、死んだ母の温かみをしみじみと身近に偲んだのでした。
 生命保険がいい思い出をくれたと思っています。

寸評
審査員・内館牧子
  とてもいい話でした。文章も起承転結がみごとで、読み終えた後にしみじみと「母親」というものの悲しさ、あたたかさを感じさせてくれます。亡くなられたお母様は、とても幸せな人生を送られた方だと思いました。