エッセイ入選


1995年エッセイ・入選

『親孝行』

干葉県 手塚真秀さん
26歳 (歯科医師)

  大学を卒業し、いよいよ親孝行できると思った矢先、まだ50歳と若い父が末期癌であることが分かった。後ろから誰かに頭を思いきり殴られたような気分……。父の命が永遠にあると思って、ろくに親孝行しなかった罰だったのかも知れない。
 そんなある日、病床の父が私に一冊のファイルを手渡した。それは、父の死亡時に私が受取人となっている生命保険の証券だった。父は、とても頑固な江戸っ手調な性格だったので、まさか生命保険に加入しているとは意外だった。
 「俺が元気なら、お前に何かあってもすぐ飛んで行けるが、棺桶に入ってしまったら、開けてまでは出て来れないだろうからな」と父は言った。いつになく弱気な、そしていつもと変わらぬ父の優しさが身にしみた。今まで父は、病気といった病気をしたことはなく、健康が看板をしょっているような人であった。そんな父が42歳を過ぎたあたりから、日本人らしく厄年を気にし、何となく不安に感じて入った生命保険。それはあの頑固な父にとって、家族を守ってくれる精神安定剤だったのだろう。
 もうすぐ父の一周忌、やっとお墓も出来上がる。なんにも親孝行らしいことのできなかったせめてもの恩返しである。(父が残してくれたお金なのが情けないけれども……)