エッセイ優秀賞


1996年エッセイ・優秀賞

『当たり前の幸せ』

大阪府 西尾 雅さん
45歳 (自営業)


  何というあっけない死。走る車の前には、人間の肉体はこれほどもろいのか。営業車の駐車場は、四車線の国道をはさんだ会社の真向かいにあった。五十メートル離れた交差点まで迂回して渡れば危険はないのだが、急いでいる営業の仲間で実行する人間はいなかった。同期の彼を含め、私たちは、いつも追われるように車の隙間をぬって走った。
 その日、一瞬の魔に見入られたように彼は事故に会い、意識の戻らないままニ日後に亡くなった。しばらく前、彼と交わした会話を思い出す。 「おまえは、独身で気楽でいいよな。うち、ニ人目出来たみたいなんだ。今日もセールス来てさ、生命保険に入れって言うから、どこにそんな経済的余裕があるんだって言い返しちゃったよ」 「人に頼られたり、頼ったりするのって、きっといいことなんだよ」
 葬式のとき、一人息子を亡くした彼のお母さんは、頼るものがなく、とても小さく見えた。次の日、私は、会社に来た保険のセールスの人を見かけるや、遠くから声をかけた。
 あれから、随分と時が経つ。彼の死をきっかけに国道には信号がついた。今では誰もが、その安全を当たり前のように享受している。が、保険の通知が、わが家に舞い込むと、ふと彼を思う。当たり前のように毎日を過ごす幸せは、きっと何かに支えられているのだ。それは、彼が言ったように人を頼り、頼られる安心なのかもしれない。

 

寸評
審査員・内館牧子
  完成度の高い、みごとな文章力のエッセイでした。文章力、構成力は全応募作の中でもトップランクだと思います。市井に暮らす男たちの、生活状態までが見えてくる描写はなかなかできることではありません。 私の好きな一篇です。