エッセイ優秀賞


1996年エッセイ・優秀賞

『母になるということ』

富山県 伊井恵子さん
28歳 (主婦)


  朝、ベッドから立ち上がった瞬間、目の前が真っ暗になった。と思うと、今度は腰に物凄い痛み。まるで、ハンマーで打ち砕かれているようだ。あたしは床に倒れこんだ。苦い胃液があがってきた。もう吐きそうだ。
 物音に気付き、両親が来てくれたらしい。 「おい。しっかりしろ」 「こりゃ駄目だ。母さん救急車を呼べ」慌てふためく両親の声に混ざり、生後三カ月の息子が泣いている声が聞こえる。ああ、今、あたしが死んでしまったら、この子はどうなるんだろう・・…。 「結石だね。結石。また痛むかもしれないけど、それで死ぬことはないから安心して。 ま、病気というより、怪我みたいなものだ。今日一日、のんびり入院なさい」先生が、病室に来て下さった頃には、痛みは嘘のように消えていた。
 普段の元気を取り戻したあたしは言った。
 「先生、今度痛くなっても我慢するから、家に帰らせて。息子、まだ赤ちゃんだから」
 結局、点滴を三本終えたところで、退院の許可がでた。計十時間の入院生活だった。
 翌日あたしは生命保険会社に電話した。 「保険金の受取人を夫から息子に変えたいんですけど」 「急にどうしたんですか?」 「昨日生まれて初めて入院しましてね。そしたら、やっぱり保険金は息子にと思ったもんで」
  母になるとは、こういうことかもしれない。

寸評
審査員・内館牧子
 こういう感覚、大好きです。保険金の受取人を夫から息子に替えるという発想が、実にリアル。そのくせ、全然いや味がないのは伊井さんがきっと可愛らしい人だからです。 この陽気な妻に苦笑しているご主人が目に見えるの。いいなァ。