1996年エッセイ・入選
『江戸っ子親子』
東京都 滝沢正樹さん
28歳 (会社員)
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「あんたも生命保険はいんなさいよ!」
母さんがいった。ぼくは驚いた。
「生命保険?…どうしたの、いきなり」
「寅さんだって肺癌で倒れたんだよ。あんただって、いつ何があるか…」
母さんは寅さんの大ファンだった。渥美清さんの逝去が報道された夜、布団の中でふさぎこんでいた。しばらくすると起きて外出していった。戻ってきたら「男はつらいよ」シリーズのビデオを山ほど抱えていた。レンタルショップで借りてきたのだ。それから一晩「女もつらいよ」などと泣き濡れていたかもしれない。ぼくは先に眠ってしまった。
「生命保険にはいれ」というのもわからないでもない。ぼくの健康診断の結果が思わしくなかったせいだ。ぼくは再検査を受けなければならなかった。レントゲン撮影で、肺に影が写っていたのだ。ぼくは恐慌し、母さんは親戚中に電話をかけた。「異常なし」と再結果通知がくるまで不安は拭えなかった。
「とにかく生命保険にはいんなさいって!」
「母さん。保険に入る意味がないよ。お金あっても、生き返ることはできないでしょ?」
「けど、死んだら私は一人だよ…あんた、それでも江戸っ子の端くれかい!? 義理と人情ってぇのはないのかい!?」
― なるほど。そうこられちゃ黙ってられない。アハハ、母さんらしいや。たまには江戸っ子らしく、粋に恩返しでもしてやるか!
あっ。でも、ぼくは長生きするからね。
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