エッセイ入選


1997年エッセイ・入選

『今・・・ここにある通帳』

東京都 久山笑美子さん
38歳 (主婦)


  「お母さんがもし死んだら100万円貰える保険に、入ることにしたからね」と私は少しおどけて云った。母は思い切り不機嫌な声で「失礼ね・・・まったく」とだけ云った。「でもさ、生きてても満期がくればお金貰えるんだよ。10年で満期、そしたら旅行でもしようね」こちらのセリフを先に云うべきだったが、照れ臭かった私はついでのように付け加えたのだった。
 「旅行より、早く嫁にでも行けば?もうあんた30歳越えたんだよ」 「興味ない」…結婚したら一人きりになってしまう母に、ささやかな親孝行のつもりで入った保険だった。万一病気になっても安心だし、満期になれば少しでも老後の助けになると思っていたのだがそれは云わなかった。
 「あんたが掛け金払ってあんたが受け取るんなら、まあ貯金みたいなもん」かとしかたなく納得していた母は2年後、本当に逝ってしまった。
 私が掛け金払って私が受け取った母の命のお金は、今わずかな貯えと共に通帳に眠っている。自分のために使うことはなかったけれど、あれから母親になった私は時おり、そのお金の中から娘に洋服やおもちゃを買っている。「お婆ちゃんが買ってくれたんだよ」と娘に話しながら…。お婆ちゃんに会えなかった孫と孫に会えなかったお婆ちゃんの間に、一冊の通帳がある。