エッセイ優秀賞


1997年エッセイ・優秀賞

『『平凡』という幸せ』

愛知県 船橋理佳さん
34歳 (主婦)


  それは、私が一四歳の秋に突然容赦なくやってきた。  四二歳の父と浅草に厄払いに出かけた年だ。「体が痛い」と会社を休んだ父がそのニ週間後に他界したのだ。癌。子煩悩で尊敬する大好きな父だった。
 突然に柱を失った私達の人生から平凡という言葉が消えた。父が、生命保険に加入していなかった事が拍車をかけた。母三八歳、妹十歳、弟五歳。育児の真っ最中で、花など楽しんでいた母が、子供三人抱えて東京の家賃暮らしをしていける筈もなく、私達は父の遺骨を膝に乗せ、泣きながら引っ越した。
 母は休み無く働いた。四人が食べていく為だけに。 妹はまだ十歳だったが、小学校から帰ると真っ先に母の働く市場へ走り、冷たい水に浮豆腐を売るのを手伝った。小さな手が冬は霜焼けで真っ赤だった。世の中が貧しい時代の話ではない。
 あれからニ十年、妹は愛娘誕生の幸せにひたっている。姉妹で昔の話が出ると必ず「お父さんが生きていたらねえ」となり、「あの頃生命保険にはいっていたらねえ」となる。
 命はお金で買えるものではないが、生命保険というものには人生の中で幾度かの「加入どき」がある。子供の誕生の喜びと同時に必要な、愛情と責任の形ではないだろうか。今の私には、決して安くはない保険料を毎月支払っている事をすっかり忘れて暮らしている、この「平凡」という幸せがとても有り難い。

寸評
審査員・玉村豊男
 大変でしたね。悲劇的な状況から、頑張って貴重な「平凡」を手に入れるまでの努力に頭が下がります。理知的でスキのないしっかりした文章は、そうした経験が人間を見事に育てていくのだということを教えてくれます。これからもお幸せに。