これまでのエッセイ最優秀賞


1998年エッセイ・最優秀賞

『生活しはじめた息子』

宮城県 河村文夫さん
53歳(会社員)


  私鉄の電車を降り、ごみごみした商店街の間をいくつか曲がった。何度か道を尋ねて、息子の住むアパートを見つけ出した。
 ブザーを押すと、いきなり息子がヌッと現れた。日焼けして、以前より引き締まった顔付き。変わったな、と思った。
 予告なしに突然訪ねたのに、息子は驚いたふうもなく、「暑かったろう」と、私のことを気遣ってくれる。
 「彼女は?」「俺が休みで、あいつは出勤日。看護婦というものも忙しい仕事だね」と笑っている。
 息子が非行に走りだしたのは、中学三年のときだった。私と妻は、何度も学校や警察に呼び出された。高校の途中で町を出て行ったのも、親や学校への反発からだったのだろうか。何といっても、私の責任は大きい。
 それでもたまには、東京から電話をよこしたが、住所までは明かさなかった。そんな息子が、「結婚したよ」と言ってきたのは、半月前だった。
 私は息子の狭い室内を見渡した。家具も数えるばかり。それでもきちんと整頓されている。地味な柄のブラウスが、壁にかけてあった。
 「うまくやってるよ。思いやりのあるやつだし...」と、私の聞きたいことを先まわりするように言い、「それに、生命保険にも入ったんだ」と、息子は唐突にそんなことを付け足した。自分たちの生活を、真剣に考えはじめたな、と私は思った。

寸評

審査員・市川森一
 「それに、生命保険にも入ったんだ」
 という、最後の息子のひと言が、それまで非行に走っていた過去と、父親の心配を、いっぺんに吹きとばしてくれて余りある、いいあと味になって、読む者を納得させてくれました。父親の安堵感がしみじみと伝わってくるようです。