エッセイ入選


1998年エッセイ・入選

『それから十年』

佐賀県 小松陽子さん
57歳 (特別公務員)


    「お母さん、今迄ありがとう、生命保険、これから自分で払っていくから。それから、もう少し増額して、今迄通りお母さんを受取人にして…」
 娘は職場から弾んだ声で電話をかけてきた。病院に勤めて一年、漸く仕事にも余裕が出てきた頃だった。痩せてきている事に早く気付くべきだった。大学時代からスポーツ万能、音楽、茶道まで趣味も幅広く熟し、薬剤師の資格取得を目指して勉学にも励んでいた。過激な日々を余儀なくされていた筈だが、痩せるようなことはかつてなかった。身長168センチに固い肉を付け、日焼けした顔は健康に満ち溢れていた。  まさか、私の愛娘が死を目前に控えているとは夢想だにしなかった。
 電話から一カ月後のことだった。走り疲れた小羊を襲う猛獣のように、ウィルスは娘の心臓を直撃し、一片の情もなく命を奪い取った。母子家庭で、娘の成長を唯一の生き甲斐として、ひたすら働いて、働いて、死ぬ思いで育てた娘を、私のことを誰よりも理解し考えてくれたたった一人の親孝行な娘を、いとも簡単に天国へ連れ去った神を、もう二度と信じまいと思った。「心配しなくていいよ。少し風邪気味なだけだから…」と微笑んだ顔が私の脳裏に刻印の様に焼きついている。
 娘が遺してくれた生命保険で、私は小さな家を建てた。夢の中で生き続けている娘とニ人、私の生涯、この家で暮らそうと…。
 平成の年が明けて、あれから十年。