エッセイ優秀賞


2002年エッセイ・優秀賞

『夏の日』

静岡県 阿部英子さん
50歳(主婦)


  猛暑が続いた日、父は自転車に乗って長い坂道を登り、私の入院している病院へ見舞いに来た。汗びっしょりでぬれた手拭いを持ち、心配していたのだろう、私の顔を見ると
 「大丈夫か」
と、聞いた。
 「うん、元気だよ。それよりもお父さん、足の痛みは治ったの。こんな遠いところまで来てくれて、無理しなくてよかったのに」
 私が言うと、のどが渇いていたのか売店でお茶を買い、待合室の椅子に座って飲み始めた。
 「母さんの入院した時は、大変だったなぁ、治療代も高くてね。母さんそれを気にしてね。」
 当時、農業をしていた父は、夜中まで野菜を調べ、朝五時には市場へ行き、合い間に母を見舞っていた。母の余命を知らされた時の父は、どんなにつらかったろう。一人黙って悲しみに耐えていた。きっと母も同じ気持ちだったに違いない。
 「父さん、私は手術すれば治るんだって。それに保険に入っているから治療費は安心よ」
 私が言うと、笑ってうなずいた。父は、ほっとしたのか
 「帰りは、下り坂だから楽に走れるよ」
と、言いながら足をひきずり駐輪場へ向って行った。

寸評

審査員・市川森一
  一陣の涼風が吹き抜けていったような爽やかな思いが残る秀作。病気の娘と見舞いに来た父親とのさりげなくも温かい会話。保険の話も無理なく効いている。実直そうなお父さんの笑顔が浮かんでくるようだ。ドラマの一場面としても素晴らしいだろうな。