2003年エッセイ・入選
『安心してね』
埼玉県 金子 直弘さん
28歳(自営業)
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ある日突然の出来事である。「母さん癌になったみたいなの」と、母が言った。
父と母二人で一生懸命日本そば屋を経営して三十年。そんなわが家にとって、それは閉店を意味しているように思えた。
社会人になって十ヵ月の私に母は、満面の笑顔で言った。「店を継いでくれないか」
返事は決まっている。
私は退社し、家業を継いだ。
癌治療にはお金がかかる。毎月十日締めで支払う治療費は想像を超えていた。
父は家の権利書を片手に「せっかく継いでくれたのに悪いが、父さんと母さんで一から築いた店だから、精一杯の治療をしてやりたい」と私にわびた。
そんな父に母は「生命保険に入っているのよ」と大笑いである。それどころか「万が一のときは母さんの夢だった大きな店に建てかえて欲しい」なんてしっかり遺言までしていった。
約束通り大きく、新しくなった店には母の姿はないが、 「保険に入ってるって安心を買うことなのね」とつぶやいた笑顔は店中に溢れている。
決して楽ではない生活ではあるが、将来産まれてくるわが子の為にも「安心」を買ってやろうと思っている。
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