1994年エッセイ・入選
『元気を出して』
東京都 田作なつ子さん
66歳 (主婦)
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その朝もいつもの朝と同じ、味噌汁をよそって家族が膳につくのを待った。夫はサラリーマン。長男は大学一年。長女は小学校四年生。それに義父の合わせて五人が顔を揃えるはずだった。「あれ、お父さんは?」私は茶の間に飛び込んできた長男に聞いた。いつもなら一番乗りする夫だった。私は廊下の突き当たりのトイレの前で「おとうさん」と一声かけた。さっきここに入る姿を確かに見かけたからだ。もう一声かける前に私はドアを開けた。と、夫は座り込んで壁にもたれかかり、くの字になってうなだれていた。
あとの運びがどうなったのか、気が付いた時には夫は運ばれた病院のベッドの上で大きないびきをかいていた。今、夫に先立たれては、子供ふたりと義父を抱え、女手一つにはあまりにも荷が重すぎる。しかし、夫は再び目覚めることはなかった。
わずかな退職金と遺族年金が頼りだった。胸が締め付けられる悲しみを振り切ってデパートの社員食堂に勤め先を求めた。
しばらくして、生命保険会社から連絡があり、夫がコツコツと掛けてくれていた保険金が受け取れることになった。それは、悲しみから立ち直りかけた私の心の支えとなってくれた。
その朝、長男長女を送り出し、私は駅に向かいながら心のなかで「元気を出さなくちゃ」と誓った。亡き夫の家族への思いやりが生命保険だったのだと実感した。
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