1994年エッセイ・入選 
  『妻子の遺志』 
  
                  東京都 上 紀男さん 
                   47歳 (自由業) 
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          五年前の夏。私は激しい交通事故に遭い、以後五年間の入院生活を余儀無くされた。  
           五十日ぶりに意識が戻った私の耳に、信じがたい言葉が飛び込んできた。 
           「居眠り運転のダンプカーが乗用車を押しつぶしたんだって。」「三人の娘さんと奥さんは即死だって。死んだ人も残された人も、どちらもかわいそうだね。」という、ささやくような見舞い客の声だった。 
           手術の痛みには耐えたが、心の痛みには耐え切れず、病院中に響きわたるような大声で毎日毎日泣き叫び続けた私は、疲れ果てて絶望のどん底に陥り、再起さえ危ぶまれていた。 
           そんなある日。ひとりの看護婦さんが私の肩をポンと叩きながら、やさしく声をかけてくれた。 
           「投げ遣りになってはいけませんよ。あなたは、奥さんと娘さんが残してくれた生命保険のお陰で、この世に生かされているのですから、大切に人生を歩いてくださいね。」と。 
           
           そのひとことで目が覚めた私は、もういちど強く生きてみようと思うようになり、五年間に及ぶ苦しい入院生活に耐え、現在は社会復帰に向けでゆっくりと着実なリハビリ生活をつづけている。 
           人間らしく生きるということは本当に大変なことだ。しかし「生命保険」という妻子の遺志を抱いて生きる日々に、ようやく希望の光が差し込んできた。 
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