エッセイ入選


1994年エッセイ・入選

『父の保険金』

東京都 山本乃里子さん
 30歳 (会社員)

 父が亡くなって三カ月ほど過ぎた頃、母が父の部屋に正座して、私と弟を呼んだ。新しいお札で揃えられた三十八万円が、二人の前にそれぞれ置かれた。
 二十五年前、弟が生まれた年に、父は、母にも知らせずに百万円の生命保険に加入していたそうだ。母は、父の仕事関係の書類の入った引出を整理していて、その証書を見つけたそうだ。保険会社の好意で返却された証書には、母と、私と、ついたばかりの弟の名前とが、受取人の枠いっぱいに記入されていた。父の愛用していた万年筆のインクの色だ。
 二十五年前、三十代後半の父は、何を思いながら家族の名前を書き込んだのだろうか。
 まさか、自分ひとりが家族を置いて、こんなに早く旅立つとは思いもよらなかっただろう。明るく豪胆だった父が、茶目っけを出して、こっそり契約したのだろう。うんと年を取ってから、お酒でも飲みながら、「実は」と切り出すつもりだったのだろう。
 父の三十八万円は、父の故郷と、父が学生時代を過ごした町を訪ねる費用となった。どこを見ても若い父が立っているようで、涙があふれる。
 手帳にはさんだ写真の父は、太って、あははと笑っている。 「お父さんのおかげで来れたんだぞ」と、私の肩をばんっとたたく。わかってるって。お母さんを大切にして、ちゃんと生きて行くから。
 父も、私の中で生きている。