エッセイ入選


1994年エッセイ・入選

『六合目ですよ…もう』

兵庫県 太田正明さん
 46歳 (会社員)

 途中で立ち止まって、妻と山頂を見上げるとうっすらと霧がかかっている。
 「もう六合目ぐらいまで登ってきたのだろうか」
 振り返って山の麓を見下ろすと私たちの生まれ育った美しい町が遠くに霞んで見える。
 「六合目ですよ…-もう。ふたりで頑張って歩いてきましたもの」

 結婚当時あれほど若々しくエネルギッシュだった妻も、今ではすっかり落ち着いた母親になった。今まで苦労をかけたせいだろう。額のしわや白髪が少し目立つ。私はすこぶる健康だが、息子が私より背が高くなった頃から『老い』を感じ始めている。長女が高校三年、長男が中学二年―― お金が一番かかる時がこれからやってくる。

  貯えは心もとないが、いざという時の生命保険には若い頃から加入してきた。万一私や家族が病気や事故に合っても大丈夫。教育ローンもあてに出来る。このような精神的なゆとりが妻と私の六合目までの人生を支えてくれたに違いない。

「そろそろ行こうか」
「ええ、まだまだ長い道のりですものね」
 妻と私は再び山頂に向かって登り始めた。