エッセイ入選


1994年エッセイ・入選

『祖父の思い』

神奈川県 阿部けい子さん
28歳 (主婦)

 幼かった頃に聴いた話である。
 終戦直前、旧ソ連の突然の参戦で、満州(注)で暮らしていた一家がバラバラになってしまった。戦後一人で引き揚げてきたひとり娘が両親を探すが、やがて彼女のもとに一通の手紙が届く。それは父親の最期をみとった人からだった。「娘に会えたら『悪い父親だったが許してくれ、どうか幸福になってくれ』と伝えてほしい。」 と息をひきとったという。娘を思いつつ今力尽きてしまう自分……どんなに無念であっただろう。父として娘にしてやりたいことがまだまだ沢山あったろうに……突然の運命の終りに、祈るだけが精一杯の親心。何と酷な時代であったことか。
 ―その後娘は、母と巡りあうこともなく、結婚し二児をもうけた。その一人が私であり、その私もまた、昨年十二月に母となった。
 近頃、祖父のことをよく考える。会ったこともないのに、当時の祖父の気持ちが痛いほどわかるような気がする。  娘をもった主人と私は生命保険に入った。祈ることしかできなかった祖父の思いと全く変わらない私達の思いを形にするために……。おじいちゃんの曾孫は、私達がしっかり守るからね。
 今年はその祖父母の五十回忌。思いを残しつつ命果てた、多くの人々の祈りによって築かれた平和が、娘の代、孫の代、いや未来永劫続きますように……今の私の更なる祈りである。

(往)満州(国)…・昭和七年、日本が中華民国の東北三省と蒙古の熱河省の地域に創設Lた国家。昭和二十年、ソ連の対日参戦により崩壊した。