エッセイ入選


1995年エッセイ・入選

『父のまごころ』

埼玉県 松本幸子さん
55歳 (農業)

 「積むのはこっちで積んでおくから、お守りに持っていけ」。嫁ぐ朝、父が三十年満期の保険証券を渡してくれた。三十年後の自分なんて想像もつかなかったし、気の遠くなるような年月に思えて「先の先じゃ一ん」と笑った。だから、ありがたみもなかった。
 ところが、慣れない農作業と大家族の嫁として張りきりすぎたのか、神経性胃炎で入院する羽目になってしまった。「個室でのんびりすろ」夫が言ってくれた。父も見舞ってくれて「差額代ぐらい出るぞ。手続きを忘れるな」と言った。何のことか最初は分からなかった。それが嫁ぐ朝に渡された保険からと知った時、親のありがたみが身にしみた。
 その後、三人の子供たちがそれぞれ五歳になるのを待って三十年満期に入り、二十数年が過ぎ去った。今また嫁ぐ娘用に三十年満期に手続きをした。娘は「あっそう、ありがとう」とは言ってくれたけれど、その言葉にはまだ心が入っていないようだ。たぶんあの日の私同様、三十年なんて先の先だと思っているに違いない。
 私は「クスッ」と笑った。父のまごころはすべて娘の花嫁道具になってしまったけれど、娘は果たして何に使ってくれるかしら。満期になった証券をみつめて「あああ、子供なんて小さいうちが可愛かったわ」 などとつぶやきながら、やっぱり子供のために使うのでしょうね、 きっと…。