1995年エッセイ・入選
『不安を埋める仕事』
新潟県 吉野登志也さん
32歳 (歯科医師)
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虫歯は気付かないうちに進行していく。だから大抵の人は、僕たち歯医者の所にくる頃には、かなり虫歯が大きくなっている。
「患者さんは虫歯を甘くみてるよな。知らないうちにとりかえしがつかなくなって歯が死んじゃうことだってあるのに。だいたい歯医者を毛嫌いする人が多すぎるんだよなあ」それを聞いていた僕の奥さんが一言った。
「しょうがないよ。患者さんは不安なんだもの」
「でも、その不安を埋めるのも僕らの仕事だからねえ」
「いいこというわね。不安を埋めるのが仕事か」しばらく考えていた様子の妻が、にやっと笑って僕を見た。
いやな予感がした。
「ねえ、あたしも、もしあなたがいなくなったらと思うと不安なんだけど」 いけない、このあいだ話していた生命保険のことだ。
「生命保険なら、もう少し先でもいいんじゃない? 撲、今のところ健康だし」
「誰かさんは不安を埋めるのが仕事じゃあありませんでしたっけ? 身近な人の不安も埋められないようじゃあ、いい歯医者さんとはいえないわねえ」
「むむむ、そう、かなあ……」妙な所で生命保険に入ることになってしまった。
というわけでいい歯医者になるためには、生命保険に入ることはかかせないのである。
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