エッセイ入選


1995年エッセイ・入選

『初めての印鑑』

大分県 小代千代子さん
59歳 (主婦)

   昭和三十四年五月、結婚したばかりのわが家にAさんがお祝いにきてくれた。開口一番「あなた、いい人と結婚したわね。私が保証するわよ」と、得意顔で言う。
 Aさんは、生命保険の営業職員だ。小さい町の中では、知らない人はいない。今でいうセールスレディーである。地方公務員の夫は、初任地のこの町でAさんと知り合った。
 夫の母は戦争未亡人で、農業をしながら、四男一女を育て苦労していた。夫が巣立つ日、「今日からは、自分のことは自分で責任を持ちなさい」と、毅然として送り出した。夫は母の言葉が脳裏に焼きついた。
 夫は考えたすえ、生命保険に加入することにした。知らない任地で、やっとAさんを探しあてた。
 Aさんは、若い夫の考え方に感心し、親身になって加入の手続きをしてくれた。「親孝行をする人に、悪い人はいないわよ」と、話し終わったAさんは言った。
 職場結婚をした私は、夫のことはよく分かっていたつもりでいた。Aさんのお話で、知らない夫の一面を見た思いであった。

 女手一つで、三入の子供を立派に成長させたAさんも、もう亡くなった。着物姿でキリッとした、明治生まれの自立したAさんの姿が、眩しく思い出される。
 夫が保険に加入した時に初めて作った、木製の実印が今、象牙のように光っている。