エッセイ入選


1995年エッセイ・入選

『古びた封筒』

東京都 齋藤一雄さん
53歳 (コピーライター)

 母から電話があった。会社へ連絡をしてくるなんて、もちろん初めてのことだ。
 「一雄、このところ家に帰って来ないけど、いい女性でも見つかったのかい? だったら連れていらっしゃい…。家に帰る道を忘れたんだったら地図をかいてあげようか?」
 彼女を連れて僕は何日かぶりに自宅へ帰った。庭に紫陽花の花が咲いていた。
 「こちら、紀さん。こちらは地図をかくのが上手い母・・・・…」
 僕は突然の出来事を詫びた。母は、人間なにが起こるか分からないものよ、ともかく祝福すべきことが起こったわけね、と言った。
 その年の秋、新婚のアパートヘ母が訪ねて来た。ふたりは紅茶を飲みながら僕の悪口を言って笑い合っていた。
 帰り際、母は古びた封筒の中から一通の書類を取り出し彼女の前に差し出した。
 母は「今まで一雄にかけてきた生命保険だけど、これからは紀さんが引き継いでね」と言った。彼女は深く頭を下げた。
 そして「さぁ、退散退散」と声の調子を変えて腰をあげた。

 あの日から25年の歳月が流れた。生命保険は母から僕の妻へしっかりと引き継がれた。
― 付け加えると、妻は大学へ行っている一人息子の母親である。僕の母のように息子への封筒を大切に持っているのだろうか。