エッセイ入選


1996年エッセイ・入選

『使い古しの三文判』

福岡県 長尾昌子さん
58歳 (無職)

 十一年前の秋、夫は「クモ膜下出血」で突然この世を去った。それは家族の誰もが全く予期せぬ別れであったし、僅か五十一年間の生涯は何とも惜しまれた。当時二十歳の息子は働いていたが、娘は高三で卒業後は、アメリカ留学の手筈になっていた。だが、事態は変ったのである。それまで、平凡な主婦で過ごして来た私にそんな力はなく、悩んだ末、娘に留学を諦めさせることにした。
 「解ってる。私バイトしながら専門学校に通うから」と、彼女は意外にもあっさりしていたが、その健気さが私の気持を一層重くした。
 ところが数日後、思いがけない事が起きたのである。夫が居た会社へ遺品整理に出向いた私は、机の奥に一通の生命保険証券を見つけたのだ。しかも、上袋には印鑑までテープ止めされているではないか!! その印鑑は、随分使い古した三文判であった。あんなに生命保険を嫌っていた夫が? 半信半疑でそれに見入る私に、傍に居た上司が声をかけた。
 「ああ、管理職は社長命令で入っていたのですよ。奥さん、知らなかったのですか?」(世間では、一家の大黒柱は保険の一つも入っておくのが常識だろう、だが…)。それまで不安に覆われていた私の心に、その時パッと光が走るのを覚えた。そして、それは夫への感謝となり次第に胸を熱くするのだった。
 私は、その三文判を今も大切にしているし、娘はニ年半の留学体験を、"人生の財産"にしているようだ。