1996年エッセイ・入選
『辛公の遺影』
神奈川県 小池 零さん
60歳 (ライター)
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旧友が亡くなった。酒豪で理科系の彼と下戸で文科系の私は常に違う事を考え、別々の道を歩んだ。会えばいつもちぐはぐな話をしていたが不思議と仲が良かった。彼は私を甘公と揶揄し、私は彼を辛公と呼んで対抗した。
就職の年、私は職場へ来た生命保険の営業職員にひとたまりも無く一口乗せられた。辛公は技術屋にしては世馴れた口振りで言った。 「甘いな、俺達が停年の頃、物価は何倍に跳ね上がっていると思う?」
結婚を機に、その保険を増額すると、すかさず彼は言った。 「老人になった時、お前の唯一の値打が保険金ってわけか」
停年が迫って、夫婦年金に入った。久し振りで会った辛公がの宣った。
「かみさんの行く末をあまり安泰にし過ぎるとなあ、退職した亭主なんて厄介者扱いにされるんだそうだ」
四十九目を終えて、こんな彼の遺族の事が気掛かりで思い切って夫人に訊ねると、意外な返答が来た。
「ご親切有難うございます。お陰さまで主人は保険だけはきちんと掛けてくれておりました。何でも貴方に教わったのだそうですよ」
思わず振り返ると、遺影がニヤリと笑った。
「お前、相変らず甘いな、俺がお前の話を聞き漏らしたとでも思っていたのか?」
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