エッセイ入選


1996年エッセイ・入選

『夫の遺産』

大阪府 藤木清子さん
63歳 (元・教師)

  右下肢の痛みを、湿布薬とマッサージでとりあえず治療し休まず勤めていた夫が、勤務先の学校で突然歩けなくなり、救急病院に担ぎこまれたのは、十月半ばの夜だった。
 その三週間ほど前、生徒を連れて山登りをしたための筋肉痛ぐらいと考えていたのが、実は糖尿病からくる動脈閉塞で、この時は人工の動脈を埋めて一応の危機を脱した。しかし退院間近の検査で、食道部分に悪性腫瘍の進行していることを医師から告げられた
。  夫は不本意に去った職場にもう一度戻り、職責を全うしたい一念で、食道嫡出の手術に耐え、骨と皮の体で病魔とも闘ったのだが、一年後遂に力尽き、五十八歳の生涯を閉じた。
 K生命保険会社の人が私の家に訪れたのは、寄る辺を喪くし、崩れそうになる心と体に鞭打って日を過ごしている頃だったと思う。
 「校長先生には大変優しくしていただいて」娘と年格好の似たその人は、涙にうるむ目を夫の遺影と私に、交互に向けて語り始めた。
 話によると、保険の営業で学校を訪間した時など、たまたま居合わせた夫は、温かい心遣いを見せ、やさしく労ってくれたという。また、どんな人からも頼まれるとむげに断わりきれず、乏しい小遣いから保険料を捻出していたことも何度かあったらしい。
 他界して八年になるが、保険会社の人達は未だに故人を悼み、挫けそうになる私を慰め励ましてくれる。これこそ夫が私に贈ってくれた「大きな遺産」であると思う。