エッセイ優秀賞 |
大正生まれの父は、頑固な職人気質であった。家族のためにと、こつこつと種々の保険料を納め続けたが、敗戦の昭和ニ十年八月十五日以降、それらは紙屑同然になってしまった。 国家を信じていた父にとって、戦後の激変ぶりは測りかねるものであったようだ。 それからの父は、保険と名のつくものを毛嫌いするようになった。 母が「そろそろうちでも生命保険くらいかけておかないと…」と言い出すと 「あんなめにあっておきながら何を言うか」と、父は怒鳴った。 母は二度とその話を持ち出すようなことはしなかった。 昭和から平成へと年号が変わってニ年目の六月、父は出先で突然倒れた。急性心不全ということであった。 だれに看取られることもなく、ひとまたぎに、あの世へ駆け入ってしまった。父はその日の朝まで元気だったので、家族はその死を信じられなかった。 あわただしく葬式をすませたのち、母は父の遺品の整理にとりかかった。すると父の机の引き出しの底から、生命保険の証券が一枚出てきた。証券にはクリップでメモ用紙が止めてあり、父の字で次のように書いてあった。 「これは葬式用だ」 母は驚き、そして泣いた。 |
審査員・内館牧子
大正生まれの父上の頑固さと、几帳面さと、そして照れがとてもよく描かれています。そしてそんな夫を支えてきた妻の心情までが浮かびあがり、余韻のある作品です。 お母様はいい夫とめぐりあえたと思っていらっしゃるでしょうね。 |